あらかじめ… ギターのサイト内ではありますが、全くの脱線ページです!

西武山口線の奇跡 1973

~狭山丘陵を駈ける鉄道少年だった頃~

私の小学生時代は鉄道少年でもあり、消えて行く瀬戸際の蒸気機関車を追いかけていました。首都圏から蒸気機関車が姿を消したのは昭和45年(1970)。まさにその直後の昭和47年(1972)に、鉄道100年を記念して西武鉄道が山口線(おとぎ列車)に蒸気機関車による客車列車を復活させたことは、奇跡のイベントと言っても過言ではないでしょう。

 

それも、鉄道専門誌でしか見たことがなかった、伝説の軽便蒸機”頸城2号”を国鉄(当時)長野工場で徹底レストアしたうえでの搬入ですから、少年が狂喜したことは言うまでもありません。頸城 → 上越 → 上杉謙信 という強引な由来で「謙信号」と命名されたことについてはやや抵抗がありましたが、それを押して余りある価値ある出来事だったのです。

※翌年入線した”井笠1号”は「謙信号」に対して「信玄号」と命名されましたが、岡山県で

 活躍した機関車にそれはないだろう。が、率直な印象。せめて「桃太郎」でしょうか?

 

奇跡は続きました。「謙信号」の好評に手応えを感じた西武鉄道は、その翌年の昭和48年(1973)に、軽便鉄道の西の聖地である岡山県の井笠鉄道から蒸機”井笠1号”を借り受けることとなり、併せて8両の木造客車まで譲り受けたのです。今度は自社の所沢工場でのレストアとなりましたが、ここに機関車から客車※)まで揃った「本物の軽便鉄道」が、狭山丘陵に突如として甦ったのです。私の喜びは頂点に達し、山口線通いが始まりました。

※ 頸城2号だけの最初の半年は、おとぎ列車の客車(この客車も曲者ですが…)を使用。

追記:機関車の向きについて。

西武山口線は一部区間を除き、東の西武遊園地駅から西のユネスコ村駅に向って登る、ほぼ完全な片勾配路線でした。そのため初年度は西武遊園地駅向きを正位としていた機関車も、実際に運用してみるとユネスコ村駅向きが正位の方が、運転に有利だったようです。

翌年の1973年以降、1984年の“おとぎ列車終焉”まで機関車の向きは変りませんでした。

同様の例は静岡県の大井川鐡道でも見られ、2011年に始発の新金谷駅にターンテーブルが新設されるまで(終点の千頭駅には先に設けられていた)、機関車は山側の千頭駅方向を正位にした運転が、30年以上に渡って続けられていました。

今にして思えば、西武山口線もSLの導入時にターンテーブルの新設くらいやった方が、アトラクション感が増したのではないかと悔やまれます。何せ小形・軽量の機関車なので、

井笠鉄道の鬮場(くじば)駅にあったような、極小・人力サイズで十分だったのですから…

訂正:井笠鉄道から購入した客車の入線時期について。

本文では昭和48年(1973)以降と記載してしまいましたが、正しくは昭和47年(1972)9月下旬頃からでした。機関車の正位が西武遊園地方向だった1972年撮影の写真に井笠客車を連結したものがあったことから気づきました。書き始めの頃は記憶だけで突っ走っている感が否めず、お恥ずかしい限りです。                2019年4月

*おとぎ列車の客車を牽引する、運転開始当初の頸城2号。翌年には、機関車正位の進行方向も逆転する。
*おとぎ列車の客車を牽引する、運転開始当初の頸城2号。翌年には、機関車正位の進行方向も逆転する。

ただこの奇跡にも伏線はあって、山口線が軽便鉄道の標準軌間である762mm(2フィート6インチ)を採用していたことが幸いし、仮に610mm(2フィート)であれば、手配できる車両の選択肢は無いわけではないですが、ずっと狭まったものになったことでしょう。

*撮影のついで?に立ち寄った西武遊園地にて
*撮影のついで?に立ち寄った西武遊園地にて

年齢がバレてしまいますが、当時小学5年生の私は、父親から譲り受けた初期型のオリンパスペンを携えて、西武山口線の記録に挑みました。

ハーフサイズでフィルムの枚数には余裕があったものの、デジカメとちがって撮影には現像とプリントが伴うわけで、これが少年の財布を苦しめました。お金がないばかりに現像を保留して撮影した全てをダメにしてしまった失敗もありました。

 

そんなまでして撮り溜めた山口線の写真も、いつしか忘却の彼方となって数十年。ふとした整理から偶然に発掘されたネガフィルムから在りし日の山口線が現れたとき、私はこの奇跡の情景をもう一度確かめたい衝動が抑えられなくなりました。

引出の奥という環境でフィルムは劣化し、プリントを依頼できる写真店も近隣からは姿を消していることから、フィルムスキャナによる画像データ化をせざるを得ませんでした。

このフィルムスキャナによる方法にも苦戦し、というのも35mmフィルム用にできているがために、ハーフサイズは不可能ではないが、とてもやりにくいものだったのです。

しかし怪我の功名というか、プリント(当時のサービス判)では大幅にカットされていた画像の全容が分かったのは撮影以来初めてのことで、この発見にはかなり癒されました。

 

データ化した画像にはホコリや汚れも見られ、決して満足できる画質ではありませんが、それは補正を今後の課題とし、先ずは少年の心を虜にした西武山口線をご覧ください。

<あらかじめ…>

本編では、SL牽引時代の ”おとぎ列車” を「西武山口線」として取り扱います。

昭和60年(1985)に改修された ”新交通システム” も「西武山口線」という呼称なので、こちらは愛称の「レオライナー」で区別させていただきます。また車両の呼称についても

頸城・井笠の両鉄道会社から借用したSLについては、借用前の呼称を採用しております。

これは導入順で付られた形式と、ナンバープレートの番号が反対で紛らわしいためです。

・西武1形2号蒸気機関車 → 頸城2号

・西武2形1号蒸気機関車 → 井笠1号

※同時期に井笠鉄道から購入した客車については、入線時に外観を改修していること、車

 体への付番という観点から、西武鉄道の形式 31形 31~38号を採用しております。

 31形客車については、後述の<31形客車の形態あれこれ>をご参照ください。

<路線図と撮影場所>

西武山口線(おとぎ列車)開通30周年記念乗車券より路線図を使用させていただきました。
西武山口線(おとぎ列車)開通30周年記念乗車券より路線図を使用させていただきました。

①遊園地前駅・機回し ②山口検車区 ③トンネル~中峰信号所 ④山口信号所 ⑤鉄橋

⑥S字カーブ ⑦ユネスコ村駅 ※鉄橋と中峰信号所の印刷位置はミスプリですね。

①西武遊園地駅・機回し

今はジェットコースターの下になって跡形もありませんが、多摩湖周囲道路と一段下がった遊園地の敷地との間に「西武遊園地駅」(昭和54年(1979)「遊園地前駅」に改称)がありました。

 

ホームは対向式で2面ありましたが、機回しの関係で2面とも列車を入れたことは、

無かったように記憶しています。

ただ片方のホームのみ使用するということは無く、相互に入線させていました。

頸城2号が待機して出発を待っています。

(おそらく西武遊園地側が1番線と記憶)

 

追記:後述の時刻表によると平日は運転間隔が長く2面とも使用していたようです。

これは昭和43年(1968)ころの家族写真から。ホーム後端と車止めの様子が分かります。この時代はおとぎ電車のみで、客車は14号。当時は鉄道連隊の払い下げ台車を装備している客車だなんてコアな情報は、誰も知りませんでした(笑)。平日のピクニックだったので、ガラガラの独占状態。

誰も遊んでいない遊園地というのも、淋しいもの。今日のTDL等とは隔世の感です。

機関車を列車の先頭に付け替える「機回し」は、構内配線とポイントの位置の関係でホーム内での付け替えが行えず、100mくらい山口検車区方向に列車ごと引き出して行われましたので、おとぎ列車の域を脱した、現役の軽便鉄道を彷彿させる、ダイナミックなシーンを見せてくれました。

※無論バテロコ(B11形)でも機回しあり。

少年もこれが楽しみで飽くことなく見ていましたが、ホーム上で待つ乗客も身を乗り出し、ギャラリーとして見入っています。

 

写真は井笠1号による機回し風景で、わずかに写っている客車の後端は、西武遊園地駅側がオープンデッキの、31形36号と推察されます。手ブレが怖いのか、フェンスにカメラを乗せて撮影していたのですね。

 

こちらは頸城2号による機回しの様子。

上掲の写真とは反対のホームに、客車が待機していますね。目を閉じると、ロッドやジョイント音。機関士の掛け声。ポイントを渡る音などが聞えてくるようです。

※実は当時の録音を聴きながら執筆(笑)。

 

フェンスの左端が切れ落ちて低くなっている地形で、今日の同地点と対比できます。

相模原市にお住いの K.T.様よりお借りした写真を追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

 

上掲の私の写真とほぼ同位置で、西武遊園地駅から山口検車区までの機回し区間が、遊園地より更に高い位置にあり、狭山丘陵の尾根筋にあることが分かります。

機関車は頚城2号で、表記類が鮮明です。

追記:機回しの行程を総括して書きますと、

1.乗客を降車させてから、機関車の推進で編成ごと山口検車区方向に押し出す。

2.客車を手ブレーキで停止させ、機関車を切り離して客車とは別の線に転線させる。

3.客車の手ブレーキを緩め、ホームに向かっての僅かな下り勾配を利用して自走させ、

  ホームに手ブレーキで停車させる。

4.機関車を客車の線に転線させ、編成の先頭(ユネスコ村方向)に連結して機回し完了。

という、ギャラリーが固唾を呑む方法で行われていました。ちなみにホームとは、ほぼ水平(に近い)山口検車区に対し、ユネスコ村への本線は早くも10‰(パーミル)くらいの勾配がついており、構内から出る頃には1m近い高低差があったように記憶しています。

 *西武鉄道時刻表創刊号 1979年11月より
 *西武鉄道時刻表創刊号 1979年11月より

追記:西武山口線の時刻表で印刷物として最も古いのは、この創刊号と思われます。

昭和54年(1979)は、既に機関車が台湾製コッペルに交代してはいますが、細かい発着時刻は別としても、ダイヤの大筋のパターンは踏襲されているものと思います。

メインとなる休日のページがピンク色で印刷されているため、やむを得ず平日のダイヤをご紹介しますが、季節的な変動が大きいことから、西武山口線の遊戯・観光的な路線としての性格が表れていますね。特徴的なのは、ユネスコ村駅での折り返し時間が4分!と極端に短いこと。

降車2分、乗車2分でこなし、その間の4分で素早く機回しをしていたことになります。

列車の間隔調整の役割は遊園地前駅(旧西武遊園地駅)が担い、中途にある信号所がフル稼働(列車交換)するのは、SL運転のシーズン中に限られていたことが推察できます。

折り返しのためのポイント切換待ち停止の一瞬が、サイドビュー撮影のチャンスでした。

もちろん当時のオリンパスペンに望遠や接写機能は無いため、撮影に必要な引きを入れるとフェンスが写ってしまうことは必然でした。それでもかなり細部の様子が分かります。

<井笠1号(西武2号):信玄号>

1913年ドイツ・コッペル社製

運転整備重量:9.14t 出力:50ps

軸配置:0-4-0(B形)

比較的長距離を走行するための、大形のサイドタンク(給水用)が外観上の特徴。

井笠鉄道では1961年まで現役で使用。

保管を経て1973年に西武鉄道へ貸与。

所沢工場で整備のうえ1977年まで使用。

現在は井笠鉄道に返却のうえ静態保存。

<頸城2号(西武1号):謙信号>

1911年ドイツ・コッペル社製

運転整備重量:9.22t 出力:50ps

軸配置:0-6-0(C形)

形状は似ているが上記より古い形式。珍しいアラン式という弁装置を装備している。

頚城鉄道では1966年まで現役で使用。

保管を経て1972年に西武鉄道へ貸与。

国鉄工場で整備のうえ1977年まで使用。

現在は頸城鉄道に返却のうえ静態保存。

<B11形蓄電池機関車:番号不明>

昭和28年(1953)復興社所澤工場製

運転整備重量:10t 出力:25kW×4

軸配置:0-4-0(B形)

復興社所澤工場は、後の西武所沢工場。

全体に丸みのある形状からB11形の三次型 B13号以降と思われます。

後方の客車は走行中ではなく、留置線上にあります。

<21形客車:22号>

昭和25年(1950)復興社所澤工場製

自重:2.8t 定員:39(座席:29)

最初に登場した 1形客車の後続車種で、天幕張りの開放室内から、天井付の密閉型車体に改良されています。これは、雨天や冬季使用への措置ですが、オープンな 1形に比べると、若干の圧縮感がありました。

何といっても、鉄道連隊払い下げの97式台車の流用という実態が凄すぎます。

<31形客車:32号(旧井笠ホハ5形)>

大正2年(1913)日本車輌製造製

自重:4.47t 定員:37(座席:26)

丸妻にWルーフ(二重屋根)という、木造古典客車でも、最も味わい深い形態です。

井笠鉄道から来た貴重な8両の客車について、写真が見つからないのは痛恨の極み。

かろうじて、32号のデッキ部分を写した写真のみ出てきました。車端部や連結器、天井の様子が分かることが何よりです。

 

おとぎ列車の廃止後は、西武遊園地に展示された後、北海道の「丸瀬布森林公園いこいの森」等に引き取られたりと離散してしまいましたが、ほぼ全数※)が保存されているのは、素晴らしいことだと思います。

※38号のみ解体され台車・台枠を保存。

頸城2号の、勇壮な出発&力行シーン。少年が撮影した中で、最もマトモな一枚です。

写真には厳しい諸先輩方、オリンパスペンではこれが限界です。笑って許してください。

機関士の方も、煙にドレンと大サービスしてくださいました。軽便万歳! コッペル万歳!

K.T.様ライブラリーからお借りしました。

 

上掲の私の写真とほぼ同位置から、列車の進行方向を追ったもので、軌道の先の様子が分かります。

 

左側がユネスコ村方面への本線。右側が山口検車区への引込線となり、進むにつれて高低差を生じるようになって行きます。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

 

列車が通り過ぎ、目線が下がったことで、本線と引込線とにつけられた高低差がよく分かります。前述のとおり引込線の先には山口検車区があるため、土地を水平面に開削した結果で生じたもので、自然の地形ではありません。本線が山口検車区から離れる際は、1mくらいの段差が生じます。

 

お借りした写真によってシーンが繋がりましたので、少年のボツ写真が登場です。

 

山口検車区の高さから、本線を走行する列車を撮影すると、このように見上げる高さになります。

 

頸城2号の非公式側はパイピングがにぎやかでメカニカルさに拍車がかかります。

灌木を避けて、もう少し列車が右寄りに収まると、マシな構図になったのですけれどねぇ(苦笑)。

②山口検車区

跡地はレオライナー「遊園地西駅」の駅前広場に転用されて、当時を偲ぶよすがは何もありません。扇形の土地に向かって左から機関庫と給水塔。三角屋根の車両庫。留置線という順に並んでいました。原則立入は禁止でしたが、お願いすれば入れてもらえたのが、安全管理ピリピリの現在とちがい、当時の寛容さ※)とのどかさを思い出させてくれます。

※何もかも「いいよ、いいよ」という緩さではなく、撮影側にもわきまえを求められた。

検車区のシンボル、三角屋根の車両庫。

中央に鎮座するのは、元祖おとぎ電車の牽引機関車「B1形蓄電池機関車」唯一のB1形で、後続のB11形に比べてスリムで丸みの無い角張った外観が特徴です。

SL列車が人気を博してからはめっきり出番が減り、走行するのは12月~3月の、SL列車休止期間くらいだったと記憶していますが、おとぎ列車が終焉となる、昭和59年(1984)までは残っていたようです。

SL用に新造された機関庫。入庫しているのは、山口線に入線間もない井笠1号です。

左端に石炭(実物は豆炭)。線路の間にアシュピット(灰捨て)。右側に給水塔。

煙突の上にはブロアまであり、SLの維持管理に必要な機器は、転車台以外ひととおり設備されていたように記憶しています。

実は井笠1号入線の情報を聞いて、すぐに現地に向かったものの、お出迎えがこの後ろ向きの有様で、非常にがっかりしたことを、今もよく覚えています。

写真では分かりませんが、燃焼を上げるため、ブロアで煙突からの吸い出しを行っており、静寂の中にシューシューと迫力ある吸気音が響き渡っていました。

仕方なく撮影したこの写真も、今となっては機関庫の様子を伝える貴重な資料です。

譲っていただいた写真を追加することができました。機関庫の前で給炭中の頸城2号です。当時使用していた石炭は “豆炭” でした。ひとついただいて持ち帰った記憶だけがあり、おそらく出てこないでしょう。

 

機関車の向きが上掲の井笠1号とは反対なので1972年の入線当時と推察できます。

 

             2018年12月

こちらは同日の給水風景。同じ公式側ですが、私のフェンス越しの写真よりディテールがよく分かります。見れば見るほど興味深い構造の “アラン式” の弁装置が、この機関車の魅力に花を添えています。

 

 

 

              2018年12月

給水・給炭の前後かは分かりませんが、待機中ののどかな情景です。運用に入ると機回しだけで山口検車区に入ることはありませんから、始発前なのでしょうか?

別の写真でも触れましたが、検車区構内の線路が水平に敷設されているため、西武山口線の本線軌道がかなりの上り勾配で検車区脇を通過していることが分かります。

 

             2018年12月

川越市にお住いの N.K.様よりお譲りいただいた写真を追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

 

同じく頸城2号の公式側写真で、車両の向きから1972年入線当時の撮影と分かります。光線の加減やモノクロ写真の良さも相まって、コッペル社製SLの端正なプロポーションに思わず見惚れ、芸術の域まで感じるのは褒めすぎでしょうか? 2019年5月

お譲りいただいた写真を追加いたします。この場を借りて、お礼申し上げます。

機関庫前で給水中の井笠1号です。

本サイトでは頸城2号の写真の方が多いうえに、貴重なカラー写真でしかも非公式側という、この上なくありがたい一枚です。

小形の軽便蒸機と言ってしまえばそれまでですが、これはこれで凝縮されたメカニズムとデザインの機能美が磨き上げられ、輝いているように思えます。   2019年9月

 

お譲りいただいた写真を追加します。

山口検車庫にて頸城2号のキャブ(運転室)内を撮影したものです。美しく整備された機器類に加えて、天井近くに吊るされた「SL日誌」が確認できますね。

運転当初は、遥々頸城鉄道から職員の方も指導にみえていたと聞きます。社宝とも言える貴重な車両をお借りして運行するわけですから、乗務員の方々がいかに大切に気遣いを引き継いで行かれたのかを窺い知れます。

そうそう私もはっきりと記憶していますが、タンク機関車といえど国鉄C11型のように立派なコールバンカーを有するわけでもなく、石炭(豆炭)は写真のように焚口の手前にざっと積み上げられていただけでした。

西武山口線の一回の運行は、往復約7kmです。これだけの石炭でいったい何往復できたのか、聞いておけばよかった(笑)。    2019年10月

追録:最初の踏切

K.T.様ライブラリーからお借りしました。

 

西武遊園地駅~山口検車区脇を通り、掬水亭さんの裏を抜けると、最初の踏切がありました。今日ではレオライナーの路線開削と、「西武園ゆうえんち」「遊園地西駅」への入口とで、地形が大幅に変わってしまいましたが、多摩湖周囲道路と踏切を通る市道とのT字路は健在です。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

上掲より更に接近し、踏切の中を通過する列車を撮影したもの。

 

「旅荘三喜」の看板下あたりの小道は、今日でも確認できます。レオライナーは当地をトンネルで抜けているため、現在はコンビニと空地になっています。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

最初の踏切を通過すると、西武山口線としては珍しく北側(ゴルフ場側)が開ける地点を通過します。

軌道の両脇に安全柵は一切なく、モノクロ写真ということも手伝って、まるで地方の軽便鉄道の昭和30年代のシーンを彷彿とさせてくれる、涙もののショットです。

※縦に構図された写真をトリミングさせて

 いただいたうえで掲載しました。

訂正:最初の踏切を通過した後ではなく通過する前。掬水亭さん裏の側道からでした。

 

お譲りいただいた写真を追加しました。

踏切を過ぎると、当時は写真のように多摩湖周囲道路の反対側は空き地になっていました。特に管理されている様子もなく、休日になると駐車スペースになったり(いいのかな?)、この広場で球技をしたりと遊ぶ子供たちさえ見ることができました。

驚いたことに安全柵も設けられておらず、何とのんびりした時代でしょうか(笑)。

今日ではレオライナーの軌道になって消滅。この先はゴルフ場に続きます。  2019年10月

③トンネル~中峰信号所

*ネガ劣化とホコリ付着をご容赦ください。
*ネガ劣化とホコリ付着をご容赦ください。

中峰信号所の手前には、西武山口線唯一のトンネルがありました。といっても山稜をくり抜いたものではなく、周囲道路とゴルフ場の間との空地をアンダーパスさせるために開削された、全長たかだか数十メートルのシェルターと言った方が正しいです。でも石積みの土手と、列車を俯瞰できる数少ないポイントとして、少年は好きでした。

西武山口線のよいアクセントだったのですが、残念ながら台湾からやや大形のコッペルを入線させるとき、建築限界に抵触するとの理由で天板部が取り払われ、ただの土手になってしまいました。

左の写真は中峰信号所側からのポータルを撮影したもので、低い天井の様子がよく分かります。

 

上掲と同じ側を、周囲道路から俯瞰撮影。

トンネル上部の様子も若干分かります。

 

短いとはいえトンネル内に煙が充満することを避けるため、さすがにこの区間は排気をカットした絶気走行を行っていました。

なので、トンネル内からはドラフト音ではなく、カチャカチャといったロッドの音が響いていたように記憶しています。

 

機関車は頸城2号で、井笠客車との大きさのバランスや、客車の車両断面がトンネルの許容一杯であったことが分かります。

 

客車の方は、Wルーフ、切妻、雨どいが妻板側との形態から、31形33号と推察できます。

 

上掲の列車を、すぐに振り返って撮影。

客車の屋根上を最も接写した1枚となりました。重厚なダブルルーフと水雷形(トルペード形)ベンチレーターが泣かせます。

 

機関車の先がバラスト散布作業中で、保線関係の方が土手側に退避していますね。

なぜ退避が狭い方なのかは分かりません。

 

右カーブの先は、中峰信号所。右側は西武園ゴルフ場です。急カーブ対策のため、進入部から右側のレール内側にフランジガードが設けられているのが分かります。

西武山口線では最高時速たかだか20km/hくらい(失礼)だったと思いますが、鉄道として必要な設備だったのですね。

 

K.T.様ライブラリーからお借りしました。

トンネルの西武遊園地駅側の様子です。

 

驚くべきは、周囲道路にガードレールが無く、縁石に毛が生えたような高さしかないこと。今日ならあり得ないことですね。

 

そういえば私もこの縁に自転車を停めて下を覗き込み、通過する列車を眺めていたことを思い出しました。不思議と怖かった記憶はありません。

「自己責任」という言葉は知らなくても、直感的に注意する習慣になっていたのかもしれず、いずれにしても、おおらかでのどかな時代であったことは確かです。

 

同じく、K.T.様ライブラリーから。

撮影位置は私のポジションと殆ど同じ。

ゴルフ場に張られたテントや資材、フェンス(生垣?)の状態から、私が撮影した時期とは離れていることがわかります。

 

周囲道路の縁石と、人(ギャラリー)の高さの関係が分かりますね。

西武山口線には列車交換のできる信号所が2箇所設けられており、西武遊園地駅寄りの方が中峰信号所です。信号所としては後にできた方で、乗降はできませんがプラットホームが設備されていました。

中峰信号所で交換直後の列車で、牽引は頸城2号。玉状に煙を吐き出しながら接近。迫力のドラフト音が聞えてくるようです。

 

左側に小さく、信号所のホームと発車前のおとぎ列車の客車が写っています。

懐かしい腕木式信号機も良いアクセントになっています。

写真では分かりにくいですが、西武山口線の腕木式信号機は高さの低いものでした。

 

同列車の通過シーン。

満員の車内から、今も子供たちの歓声が聞こえてくるようです。(私も子供でした)

窓は全開。デッキから身を乗り出すと危険ではありましたが、低速運転のためもあってか、当時はおおらかだったようです。

 

客車は 31形33号で、上掲の 31形32号とほぼ同形ですが、切妻になっていました。

オマケのケツ打ち。周囲の様子がよく分かるので採用しました。左から多摩湖の用地(立入禁止)、周囲道路、軌道敷、土手(土手の更に右側は西武園ゴルフ場)。

走行中の自動車の車種が懐かしいですね。

レオライナーに改修されてからは軌道敷地内のバリケードが重厚になって、撮影した土手だった場所も開削されたうえ、容易に近づけないエリアとなりました。それにしても、よくこの藪に立ち入ったものです。

 

お譲りいただいた写真を追加しました。

後述のとおり西武遊園地~山口信号所の間は西武山口線が最初に開業した区間です。踏切やトンネルは存在するものの、実は大半が周囲道路と西武園ゴルフ場との間を走行するという、あまり変わり映えしない風景が続くため、この区間の写真は多くありません。写真はゴルフ場側から、快走する井笠1号を捉えたものです。 2019年10月

④山口信号所

昭和25年に西武山口線が開通した当初は「上堰堤」という駅名で、ここが終点でした。

ユネスコ村まで延伸された際に信号所に格下げされ、山口信号所となりましたが、ホーム等の遺構は残されていません。レオライナーに改修された際は、この信号所の直前で北へ曲がってトンネルに入り、西武狭山線の西武球場前駅と結ばれたため、山口信号所~ユネスコ村駅間が、おとぎ列車の本当の廃線区間と言えます。

西武山口線は、今は懐かしいタブレット閉塞を採用していましたが、山口信号所はプラットフォームが無いがゆえに、道路側からタブレットの交換シーンが見られるという、むちゃくちゃ美味しい場所でした。

だからこの撮影の目的も、SLよりはタブレット交換のアクションにありました。

詰所から出てきてタブレットをセット。

頸城2号が、速度を落として進入してきました。このワクワク感は忘れられません。

 

タブレットキャッチ! もうドキドキです。

機関車のエンドビーム部が欠けてしまったのはご愛嬌。でもちょっと悔しいです。

この作業をしつつも、この先の鉄橋にかけての勾配を駆け上がるための力行が、既に始まっています。頑張れ 頸城2号!

迫真のシーンが日に何度も見られたのですから、本当に古き良き黄金の日々でした。

客車は雨どいの位置から 31形34号です。

休憩を兼ねて待っていると、程なく先の頸城2号が、ユネスコ村駅から折り返してきました。こちらは下り坂なので、実にのんびりとバック運転しています。列車がたったの2両編成だったことに気付きました。

山口信号所の詰所とは反対側の様子はこんな感じで、左側の森になった辺りに鉄橋がありました。人気スポットの「狭山スキー場」は当時からありましたが、現在は改築された施設が軌道跡を飲み込んでいます。

客車は機関車から 31形32号 34号の順。

 

お譲りいただいた写真を掲載させていただきました。ありがとうございます。

 

撮影位置は私とは反対の、西武遊園地側からユネスコ村方向を見たところです。

スキー場の屋根が樹木に隠れていること、おとぎ電車どうしの交換という、ちょっと珍しいアングルかもしれませんね。

             2019年10月

⑤鉄橋

トンネルと並んで西武山口線のハイライトだった鉄橋ですが、乗っていると気付かずに通過してしまう人が多かったようです。狭山丘陵の天然の谷間に掛かった橋梁ではなく、立川市から武蔵村山市を経て所沢市に抜ける、県道55号線が通過する人工の切通しでした。

※城郭研究者の表現を借りれば「大堀切」に該当する土木工事です。調べてみましょう。

おそらくその前身は、大正時代に多摩湖の上堰堤を工事するための、物資の運搬路あるいはインクラインが通っていたのでしょう。この鉄橋跡から西武球場前駅の方を眺めると、そんな往年の情景が目に浮かびます。もちろん当時の私は知りませんでしたが(笑)。

 

バック運転で西武遊園地に向う井笠1号。

アンダートラスの実に好ましい鉄橋でしたが、仕方がないとはいえ安全柵がしっかり作られ過ぎていたのは、何とも残念です。

(竣工当時の写真では未だ安全柵はない)

それにしても、左上になぜ影ができてしまったのかは、今となっては不明です。

この角度は、南から北に向かってを撮影したので、光線によるものでもありません。

 

同列車の最後部。切妻・シングルルーフの形態は、31形の37号か38号でしょう。

井笠鉄道からやってきた8両の客車たちも実に個性あふれる形態をしていましたが、個々にはあまりカメラを向けていなかったことが、今となっては悔やまれます。

右下には鉄橋のコンクリート橋脚が、木々の間から顔をのぞかせています。

 

鉄橋の構造が分かるとの理由で、恥を忍んでボツ写真から引っ張り出した一枚。

※機関車はおそらく井笠1号

 

今となっては貴重な記録にもなりますが、当時は苦労して切通しの中途まで上がったのにもかかわらず、やって来たSL列車が全て安全柵内に収まってしまい、思惑が外れた少年はショックを受けたのでした。

怪我の功名とでもいいますか、写真に長けている大人各位は、決してこんなアングルでは撮影されないでしょうから、意外と当時の鉄橋自体を撮影したものとしては、珍しいかもしれませんね。

そう、少年は鉄橋を残したのでした…

昭和52年(1977)に井笠1号と頸城2号がそれぞれ返却されてしまい、代って台湾から輸入されたひとまわり大きなコッペル製 527号 535号が代打で入線。めでたくSL運転は継続の運びとなりましたが、車体が大きく車重も重かったため、前述のトンネルは憐れ開削。

この鉄橋もデッキガーダー形に改築され、まるで高架橋のように変貌してしまいました。

当時の写真が無いのでちょっと反則かもしれませんが、記念切符の写真を拝借しました。

カラー写真だと、井笠からの客車が大正時代に製造された超古典客車には見えませんね。

*改築後の鉄橋。客車の後方が山口信号所方面で、下り右カーブになっていると思われます。
*改築後の鉄橋。客車の後方が山口信号所方面で、下り右カーブになっていると思われます。

追記:後日入手したDVD画像にはこの鉄橋を通過するシーンが写っていたのですが、懐かしさと同時に驚いたのは、SL列車が通過することによる「鉄橋のしなり」でした。

頸城2号時代にこれだけしなるのであれば、台湾から来た 527号 535号入線時の鉄橋架け替えはやむを得ない措置であったと納得した次第。ちなみに当時の鉄橋の塗色は、上部の安全柵が白色。下部のトラスは赤色でした。動画による納得力?は大したものです。

 

お譲りいただいた写真を掲載させていただきました。ありがとうございます。

 

撮影位置は上掲の記念切符とほぼ同じなのですが、この時点で既に橋脚が撤去されていることが確認できました。鉄橋両端の橋脚が廃線まで存在していたというのは、どうやら私の思い込みだったようです。

             2019年10月

 

昭和30年代に発行されたと思われる、多摩湖一帯を収録した絵葉書を入手しました。

その中のおとぎ電車の一枚が、この鉄橋の通過シーンで、とても印象的です。

しっかりした橋脚にアンダートラスの橋桁が乗り、私が撮影した昭和48年(1973)には増設されていた安全柵はありません。機関車も角ばった最初期のB11形ですね。

             2019年10月

⑥S字カーブ(R60広場)

鉄橋を渡るとすぐに、芝生の緑が鮮やかなちょっとした広場に入り、軽便鉄道ならではのR60(半径60m)という急なS字カーブを描いてから、堤新亭という料亭※)の背後に線路は続いて行きます。ここは比較的平坦な地形にカーブの関係で列車の全容(に近い)がカメラに収まるため、西武山口線でも指折りの撮影地として著名なスポットでした。

西武鉄道でも記念切符やレオカードに、この地点での撮影画像を採用していたほどです。

※現在の堤新亭さんは、フレンチレストランに改装されています。また堤新亭さんは西武

 山口線の着工前からこの地で創業されていたため、軌道の方が敷地の裏に廻りました。

 

構図もアングルも悪い”ヘボ写真”の典型ですが、鉄橋とS字カーブとの流れが分かるため、恥を忍んで採用しました(苦笑)。

山口信号所から勾配を上って、僅かな直線の鉄橋を渡るとすぐに急なS字カーブが待ち受けているため、機関士さんは緊張した運転で苦労されたのではないでしょうか?

鉄橋を渡るSLは、頸城2号。

冬枯れのため見通しが良いのが救いです。

上掲の列車の通過シーン。これも鉄道写真としては、全くいただけません。が、S字カーブのユネスコ村駅側の様子が写っていたという理由での、苦しい採用です。

写真中央に三脚を構えたお兄さん達が写っていますが、行くと誰かしらが撮影しているという、超人気スポットでした。

客車の真上に写っている建物が「堤新亭」さんで、こちらは今日も営業されているというか、早や大正時代には狭山湖の造成とともに創業されたとの老舗。西武山口線の成り立ちから終焉までを見守っておられたのですね。お兄さんの背後に写っている堀のような部分が、先述の県道55号線です。

廃線跡探訪者の皆様、定点観測にどうぞ。

客車はユネスコ村駅側にオープンデッキのある、31形35号と思われます。

こちらは季節が移って、新緑に彩られたS字カーブ。モノクロ写真ながら、春の陽光に輝く芽吹いた若葉と木々の美しいコントラストを感じることができます(詩人)。

このアングルではユネスコ村駅発のバック運転の収まりになってしまいますが、昭和47年(1972)の運転開始直後は、ユネスコ村駅発の列車に、正位の機関車が連結されていました。→ 冒頭の記念切符参照

 

R60(半径60m)という急なカーブを補強するため、内側のレールには脱線防止のフランジガードが、またレール自体の補強として、外側に “チョック” という角材が設けられているのが分かります。機関車は井笠1号。機関車の次位の客車は、西武遊園地駅側がオープンデッキの31形36号です。

 

上掲の列車が近づいてきます。

西武山口線ではMAXの4両編成でした。

どうしてもう少し引きつけて撮影できなかったのか、タイミングが悔やまれます。

 

オープンデッキに鈴なりの子供たち。

このうちの何人が、今日のデッキで見られた、二度と体験できない目前のSLの興奮を覚えていてくれるのでしょうか?

 

日本では明治時代に製造されたドイツ製のSLと、大正時代製の日本製木造客車群。明治村に匹敵する文化財というか遺産です。

客車は 31形35号~38号からなる、全車シングルルーフで揃えた4両編成でしょう。

 

ボツ写真でしたが発見がありましたので…

S字カーブを抜けて鉄橋を渡る 38号客車をケツ打ちしたしたところですが、柵に張られていたバラ線(有刺鉄線)が写っていました。そうです。おとぎ列車なれど柵はバラ線なんです。昭和40年代リアル!

 

畑とかでも果樹園や芝畑(売物芝生)の柵には侵入されないよう普通に使われていました。自転車でコケて突っ込むと血まみれになったっけ(苦笑)。でもそれはコケた奴がマヌケという世情だったなぁ…

服を破いておふくろには叱られたし。

タフでワンパクで冬でも半ズボンで過ごしていた、逞しく野性的な少年時代です。

 

お譲りいただいた写真を掲載させていただきました。ありがとうございます。

 

撮影位置は上掲の私の写真とほぼ同じですが、カラーであること。桜が美しいこと。周辺の様子がよく分かるということで、これ1枚で全て語られてしまった感じです。

この場所が公園に改装された際、左側の盛り土が失われています。   2019年10月

追録:S字カーブ直後行く頸城2号

お譲りいただいた写真を追加することができました。これこそ堤新亭さん裏手にあって撮影名所だったガーダー橋です!

どう見ても地方軽便鉄道の築堤を疾走しているような、おとぎ列車らしからぬ風情が何ともたまりません。

機関車は頸城2号。正位が西武遊園地駅側を向いているため、1972年の撮影と思われます。客車も井笠客車の入線前で、おとぎ電車の1形を連結しています。

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点比較で使用しています。

K.T.様ライブラリーからお借りしました。

 

軌道はSカーブを過ぎ、「堤新亭」さんの裏手から小さなガーダー橋を渡って、しばらく建物と崖の間を走行します。この写真では左手の崖下が林に遮られて展望が利きませんが、おそらく直下は山口観音(金乗院)の敷地で、その先に狭山湖駅(現西武球場前駅)が見下ろせると思われます。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

 

同列車を引いて撮影したもの。住宅の左側の木立を目印にすると、次の写真との位置関係が掴めます。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

 

同列車を更に引いて撮影したもの。

この家並みや生け垣、石垣やブロック塀の一部が現存している可能性もあるので、後日の再探訪(懲りずに行く気でいる)の課題にしたいと思います。

この後、軌道は県道55号線との並走区間となって、サミット(峠)に向かいます。

 

お譲りいただいた写真を追加ました。

本来はこの項の最初にあった方が、位置関係的には分かりやすいと思うのですが…

S字カーブの広場を抜け、先述のガーダー

鉄橋に至る間に、西武山口線の沿線随一の展望を誇るビューポイントを通過します。

狭山湖駅(現西武球場前駅)や狭山スキー場は確認できますが、まだまだ緑多き頃の

狭山丘陵の面影を伝える一枚です。

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点対比で使用しています。  2019年10月

追録:サミット(峠)を越える車両たち

※サミット(峠)の解説は、ユネスコ村駅から西武遊園地駅への方向で記載しています。

K.T.様ライブラリーからお借りしました。

 

ユネスコ村駅を出てすぐ、軌道は山間の築堤となり、勾配を登りきったところで、サミット(峠)に差し掛かります。

写真はまさにサミット(峠)の頂点で、軌道は山稜を開削した切通しを通過します。

軌道跡は遊歩道になって現存しますが、この切通しは埋められてしまいました。

同じく、K.T.様ライブラリーから。

 

サミット(峠)通過直後の同列車です。

勾配標から12.5‰もあったことを再発見!

この先(右側)が撮影名所のひとつだった竹林で、それを抜けると軌道は県道55号線と合流し、数百メートルを並走します。

私の写真でネガの見つからない区間ですので、シーンが繋ってうれしく思います。

お譲りいただいた写真を追加することができました。撮影地点は上掲と全く同じ。

機関車正位のサミット進入シーンです。

機関車は頸城2号。正位がユネスコ村駅側を向いているため、1973年以降の撮影と思われます。客車も井笠客車で珍しいシングルルーフ・Wルーフの混結編成です。

 

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点対比で使用しています。

撮影地点は上掲と全く同じで、振り返ってユネスコ村駅からの折り返し列車(機関車反位のサミット進入シーンです。

 

機関車は井笠1号。軌道のすぐ左脇は土手になって道路になっていますが、それを列車が絶妙にマスキングしているため、里山を行く軽便鉄道の雰囲気がたっぷりです。

 

このサミットの切通しは埋められて遊歩道の坂道に変ってしまいましたが、当時の雰囲気がほぼ残されて偲べるのはありがたいことです。

 

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点対比で使用しています。

 

 

お譲りいただいた写真を掲載させていただきました。ありがとうございます。

 

カラー写真で見るサミットの様子は、当時と廃線跡となった遊歩道のイメージを結んでくれる貴重な資料となりました。

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点対比で使用しています。

             2019年10月

 

こちらはサミットから西武遊園地方向を見た写真です。ちょうど客車が差し掛かっている辺りが竹林で、その先に県道55号線がわずかに見えますね。まるで模型のジオラマのように景色が移り変わっていくところが、鉄橋~ユネスコ村駅間の魅力でした。

※この写真は2018年12月の廃線跡探訪でも定点対比で使用しています。 

             2019年10月

⑦ユネスコ村駅

Sカーブを過ぎた西武山口線は、前述の「堤新亭」さんの裏に回った後、県道55号線沿いに西行。市道狭山湖線との交差点で真北に向きを変え、程なくユネスコ村に到着します。

この区間は同線最大のサミット(峠越え)があったり、静かで美しい雑木林の中を抜けたりと、地方の軽便鉄道さながらの風景が続いた、本当に残したいベストな区間でした。

 

開通当初の上堰堤駅(山口信号所)からユネスコ村駅に延伸させたとき、それまでの多摩湖の周回道路沿いから、狭山湖堰堤の延長上にあるユネスコ村駅へは、地形的なクリアが少々難しかったものと推察できます。そのため道路からの露出が減り、数十m奥まった狭山丘陵の山稜内にルート設定されたことが、一味ちがった路線になった所以でしょうか?

 

残念ながら、この区間での写真が今回のネガからは全く見つかっていません。林の中での光量不足で、オリンパスペンの露出範囲では写真にならなかったり、藪潜りをしたりといろいろ思い出はあるので、ぜひ見つけ出せることを願っています。

 

<数少ない現存写真から①>

ユネスコ村駅に進入する井笠1号。

背後の小山の右裾に、先述のサミットがありました。今日も遊歩道で散策できます。

腕木式信号機2本や踏切の警報器も写っており、ユネスコ村の入口でした。

 

フェンスにカメラを載せて撮影するのがこのころの癖で、残念ながらひどい写りこみです。理由はオリンパスペンが一眼レフではないためで、ファインダー越では写っていないことになっているのですね。

スナップ用カメラの限界というか、所詮は小学生の写真とお許しください(笑)。

<数少ない現存写真から②>

ユネスコ村駅で出発を待つ、頸城2号。

西武山口線は、車両の非公式側を撮影し難いロケーションが多いため、このアングルでの頸城2号はあまりありません。

ユネスコ村駅のホームも西武遊園地駅と同様に2面ありましたが、こちらは駅舎側の

ホームのみを使用していたようです。

男の子は、当時2歳の末弟です。この写真を見せたら、もう覚えていないとのこと。

K.Yamada様撮影の写真をお借りし、追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

ユネスコ村駅の駅舎といえばオーストリアの山荘を模した建築を回想される方が多いと思いますが、実はそれは隣接した食堂で(レストハウスと書きたいが看板にそうある)、駅舎の実態は右側の簡素な建物であることをご存知でしたか?開業当初は一体だったものを、後年分離させたようです。

譲っていただいた写真の中にはユネスコ村駅構内での機回し風景もありました。

今も昔もSLは子供たちの人気の的で、こうした魅力的なシーンは溢れるギャラリーでいっぱいなのが常ですが、こうした雨模様の日は来園客も少なく “おとぎ電車の駅” らしからぬ風情を醸し出しています。

機関車は頸城2号で、正位がユネスコ村駅側を向いているため1973年以降の撮影と思われます。       2018年12月

川越市にお住いの N.K.様よりお譲りいただいた写真を追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

 

機関車は頸城2号で、機回しも終わって今まさに発車を待つ瞬間なのでしょう。

上掲の写真と機関車の向きが反対で正位が西武遊園地駅方向を向いていることから、1972年入線初年度の撮影と思われます。

             2019年3月

N.K.様よりお譲りいただいた写真です。

 

桜咲くなか、ユネスコ村駅直前の下り勾配にさしかかる井笠1号の姿です。

サミットを通過すると北に向かってカーブしますので、ちょうど編成がその辺りにあるのでしょう。まさに桃源郷の趣きです。

※写真をクリックすると拡大します。

              2019年5月

お譲りいただいた写真を追加いたします。

この場を借りて、お礼申し上げます。

 

機関車は頸城2号で、踏切を渡って今まさにユネスコ村駅へ到着するところです。

ユネスコ村トップの、私のヘボ写真と何とちがうことでせう(泣)。こういう写真が撮りたかったなぁと思いながら見ました。

廃線跡となった今日とも比較できますね。

             2019年9月

<31形客車の形態あれこれ>

井笠鉄道から購入した8両の客車は、大別すると Wルーフ(二重屋根)とシングルルーフがあり、それぞれが揃って最大4両編成を組成できるようになっていました。

外見は似ていますが各車にも特徴を備えていて、車体の一部しか写っていなくても車番を推察することができるのは楽しいですね。

31号(旧井笠ホハ2形)大正2年(1913) 日本車輌製造製 丸妻・Wルーフ

8775×2000×2900(長×幅×高さmm)  自重:4.47t 定員:37(座席:26)

特徴:雨どいが客室側にあって細い。ウインドシル(窓下の帯)の幅が狭い。

   妻板の中央部に横方向の補強帯がある。

 

32号(旧井笠ホハ5形)大正2年(1913) 日本車輌製造製 丸妻・Wルーフ

8775×2000×2900(長×幅×高さmm)  自重:4.47t 定員:37(座席:26)

特徴:雨どいが客室側にあって細い。ウインドシル(窓下の帯)の幅が太い。

 

33号(旧井笠ホハ6形)大正2年(1913) 日本車輌製造製 切妻・Wルーフ

8775×2000×2900(長×幅×高さmm)  自重:4.47t 定員:37(座席:26)

特徴:31号 32号と同型だが、妻板が切妻。雨どいは妻板側にある。

 

34号(旧井笠ホハ10形)大正4年(1915) 内田鉄工所製 切妻・Wルーフ

8432×2000×2870(長×幅×高さmm)  自重:4.47t 定員:37(座席:26)

特徴:31号~33号とほぼ類形だが、外寸が僅かに小さく、雨どいが客室側にあって太い。

   製造所の違いによるものか?

 

35号 36号(旧井笠ホハ18形 19形)大正14年(1925) 日本車輌製造製 切妻・Sルーフ

9415×2000×2932(長×幅×高さmm)  自重:6.2t 定員:45(座席:32)

特徴:31号~34号より大形で定員も多い。切妻・シングルルーフで片側オープンデッキ。

   35号がユネスコ村駅寄り、36号は西武遊園地駅寄りがオープンデッキ。

 

37号 38号(旧井笠ホハ13形 14形)大正14年(1925) 日本車輌製造製 切妻・Sルーフ

9390×2082×2932(長×幅×高さmm)  自重:5.6t 定員:45(座席:32)

特徴:35号 36号の両側切妻版でシングルルーフ。

<禁断のコレクション>

当ページを開始してから、資料探しのつもりで検索した記念切符が欲しくなったりとか、由緒ある品々からの誘惑が始まってしまい、気が付いたらこんなに集ってしまいました。

ミイラ取りが木乃伊になるとはまさにこのこと。決して真似はお勧めしません(苦笑)。

冒頭の路線図等に活用できたので、無駄ではなかったと言い聞かせております。ハイ…

といって、それほどレアかつ貴重なものは無いと思いますので、併せてご笑覧ください。

追記:各種切符や時刻表を眺めていますと “西武山口線” という路線名は不動なのですが、愛称が “おとぎ電車” “おとぎ列車” “おとぎ線” と、一定しないことに気づきました。

察するに、バテロコ(蓄電池式機関車牽引)時代は “おとぎ電車” 。SLが加わってからは

“おとぎ列車” に変遷。しかしバテロコ牽引の列車には、引き続き “おとぎ電車” という名称を併用させていたようです。“おとぎ線” は乗車券の名称に使われ続けていました。

西武鉄道の中で呼称が統一されていなかったというのは、やはり遊戯・観光用途の鉄道であるがために、表現にシビアな拘束が及ばなかった(緩かった?)ためでしょうかね?

①記念切符

昭和47年(1972)の鉄道100年を記念して、西武山口線に頸城2号を初めて走らせた年に発行された記念切符です。

冒頭にも記載しましたが、この時点では未だ井笠鉄道からの客車購入前のため、おとぎ電車用の客車を牽引しています。また機関車の走行向きについても、西武遊園地方向を正位としている等、翌年からの運転とは異なった特徴を見ることができます。

撮影場所は名所となったSカーブですね。

昭和55年(1980)に西武山口線の開業30周年を記念して発行された記念切符です。

SL列車の牽引機は、台湾製糖から購入したコッペル5形 527号と 532号に交代。

駅名も「西武遊園地」から「遊園地前」に変更されているなど、SL列車運転開始当初からの変遷も見出すことができます。

⑤鉄橋の項でも引用した、新しく架け替えられたガーダー鉄橋の採用が象徴的です。

上掲から僅か4年後の昭和59年(1984)。

西武山口線は、新交通システム「レオライナー」への転換・改修が発表され、開業から34年目をもって軽便鉄道としての歴史に幕を下ろすことになりました。

これはその時に発行された記念切符で、上掲の30周年記念切符とデザインは似ていますが、花で縁取られたレイアウトに引退=花道への思いを感じることができます。

②記念乗車証明書,乗車券(硬券) & レオカード

上掲の「さよなら記念」に類するものが、さよなら記念ウィークに発行された記念乗車証明書とその期間内の乗車券(硬券)。

2枚の乗車券は昭和56年(1981)発券のもので「遊園地前駅」に駅名改称後のもの。

(開業からのの駅名は「西武遊園地駅」)

レオカードの方は、平成8年(1996)の鉄道の日(10/14)にちなんで発行されたもので、西武山口線のSL運転終了から12年が経過しています。撮影地は名所Sカーブ!

硬券が何枚か集まりましたので、まとめてみました。昭和40年代初旬のデザインは切符に「おとぎ電車」のイラストが微笑ましくプリントされているものですが、硬券としては、やや薄めの紙質です。

下の硬券は、当時の西武鉄道の切符と同じ体裁です。同じ区間なのにも関わらず、昭和48年(1973)と52年(1977)と3倍以上の運賃格差があることに驚かされます。

おそらくオイルショックの影響でしょう。

昭和55年(1980)と56年(1981)のものは、

運賃こそ変わりませんが「西武遊園地」の駅名を「遊園地前」に変更後のものです。また

「おとぎ電車」から「おとぎ線」へと変更されるなど、細部の変遷が見られます。

正式な路線名「西武山口線」は、ついに乗車券には記載されなかったようですね。

上は昭和30年代に発行された「おとぎ電車」の優待乗車券です。鉄道の乗車券というよりは、遊園地の遊具券といった体裁です。西武山口線は、当時かられっきとした西武鉄道の営業線のひとつではありましたが、西武遊園地~ユネスコ村の入園券とセット化され、アトラクション色を強く打ち出した扱いだったことが窺い知れます。

下は西武遊園地の入園券で、右側は裏面。

アクセス中心の路線図が良い雰囲気です。

記念レールと当時の包装紙


レールに添えられた解説によりますと、1897年イギリスのキャンメル社製とのこと。

たいへん古いものであることが分かりますが、西武山口線の開業が昭和25年(1950)なので、その間は何に使われていたのでしょうね? 包装紙もばっちり“昭和の装い”です!

少々脱線しますが、レールサイズを比較。①は私が中学生時代に購入した国鉄のレールで、目的は鉄道グッズとしてではなく、金床(工具)として使用するため。サビているのは、物置に収納しているからです。

②は木曽森林鉄道で使われていたレール。

軽便鉄道より更に規格の低いレールが使用されていたことが分かります。

③は上掲の西武山口線記念レールで、国鉄線と森林鉄道との中間くらいなのですね。

記念コースター


おとぎ列車廃止の記念品としては、こういうグッズも出ていたんですね。

コースターの1枚1枚をバラで販売していたのを目にしたことはあったのですが、化粧箱に入った6枚セットで売られていた、あるいは配布されていたものとは知りませんでした。

何せ化粧箱のどこにも発売元や価格等、出どころが分かるような記載がありません。

S字カーブ広場、鉄橋、中峰信号所での交換など、写真はどれも名所揃いでSLとバテロコが半々というのも微笑ましいですね。牽引されている客車の種類にも注目してください。

プラ製のトレーに写真を印刷したステッカーが貼ってあるだけなので、傷みやすいかも。

⑤音源@アナログレコード & CD

「軽便鉄道の蒸気機関車」

RCA(ビクター)から発売されたアナログレコードで、西武山口線のSLが未だ現役だった、昭和54年(1979)の発売です。

西武山口線の他に、オーストリア国鉄ガルステンークラウス線が収録されています。

でも西武山口線で使用されていたSLは全てコッペル製(ドイツ)なので、この盤の主役は全てヨーロッパの音なのですよね。

井笠1号 頸城2号 5形532号収録。

「軽便蒸機の魅力 西武山口線のコッペル」

こちらはプライベート版のCDですが、録音自体は良好に記録されており、特に不明瞭なところはありません。

西武山口線に特化したCDなので走行から入換まで幅広く楽しめるのが魅力です。

井笠1号 頸城2号 5形527号 532号収録。

⑥映像@DVD


最近になって入手した軽便鉄道シリーズのDVDです。よく探せばカラー映像まで商品化されていたとは新発見でした。さすがにこういったことができる(記録する)のは年長者ならでは特権で、当時小学生だった私には8ミリを回す(撮影する)ことや自動車による機関車との併走シーンなど挑めるはずもなく、当時大人だった方が真剣に取り組んでくださったおかげと感謝する以外ありません。そりゃぁピントが甘かったり画像がブレていたり風景の順番の入れ違いに気付くこともありはしましたが、動画でほぼ全線が追えたというだけで、胸がいっぱいになってしまいました。少し残念だったのは、鉄橋からサミットに至るいわゆる “堤新亭の裏コース” がイマイチ追い切れていなかったことくらいでしょうか。

尤もこの区間は撮影し難さでは沿線随一なので、それも仕方ないとは思うのですか。

先ずはご先輩の偉大なる熱意とご尽力に深い敬意を表したいと思います。  2019年3月

⑦当時(昭和40~50年代)の専門誌

おとぎ列車の現役時代に刊行された雑誌やムック本で、表紙を飾っているのはどちらも頸城2号です。時代背景的には石川県の尾小屋鉄道や岡山県の井笠鉄道が辛うじて残っていたこともあって、滅びゆく地方の軽便鉄道に脚光が当り(当然ですが)遊園地の付帯設備的なおとぎ列車は車両こそ古(いにしえ)の名車揃いでしたが、鉄道マニアが本気で追う対象としてはやや抵抗があったようです。私の年長の知人も同じことを申しており、あの時代の西武山口線に通わなかったことを後悔しておりました。

当時小学生の私は見られるだけで幸せだったのでそういった先入観はありませんでした。

⑧昭和40年代中頃のチラシ & 案内図


思わず裏面の絵地図(案内図)に魅了されてしまう西武電車(西武鉄道)発行のチラシです。

当然紹介されるべき“SL列車”が出てこないことから、昭和47年(1972)以前のもので間違いないでしょう。小学生時代の春の遠足の定番が、狭山丘陵(今でいうトトロの森)一帯でしたが、西武園は遊戯施設にお金がかかるので当然オミット。多摩湖駅(現西武遊園地駅)周辺の多摩湖下堰堤の公園か、入園料のみ(例外あり)でやや文教的な、ユネスコ村のどちらかというところでしょう。西武球場がオープンし、周辺の宅地化が過密化するにつれて、急速に近場の遠足好適地としての魅力が薄れてしまったことは残念でなりません。

⑨往年のおとぎ電車(ユネスコ村絵葉書から)


かつては首都圏を代表する観光地のひとつだった「ユネスコ村」。そういえば狭山湖の土産店にペナント(ご存知ない世代の方は調べてください)が下がっていたし、ユネスコ村にも絵葉書や記念品が数多く販売されていました。おそらく昭和30年代のものと思われる絵葉書にも、象徴的なオランダ風車とともに、我らがおとぎ電車が採用されています。

年代的には左側の方が古いようで、バテロコ(B11形)の塗色が赤※(間違いでなければ)であったり、橋梁周辺の樹木が竣工直後のせいか繁茂していなかったりと、見てとれます。また西武遊園地駅の様子が後年とちがうことから、駅が在りし日の“多摩湖ホテル”に隣接していた時代(武蔵野夫人という古い映画に出てきます)の可能性がありますね。

余談ですが、おとぎ電車の英名が Fairy Tram Car であったことを、初めて知りました。

※)おそらくこの年代の絵葉書はモノクロ写真に彩色を施したものである可能性が高い。

おとぎ電車ではありませんが、強烈なインパクトを放つ “おとぎバス!” の絵葉書を発見しました。これは凄い!涙ものです。

実物を見たかった。乗りたかった。できれば撮影して模型にもしたかった。嗚呼…

若干の記録はあるようで、西武園駅(競輪場近くの方)と猿ヶ島(西武遊園地内の施設のひとつらしい)とを往復する送迎バスとしての運行だったようです。

ページ作成後、40数年後の現地を再訪した「おとぎ列車の廃線跡探訪」もご覧ください。