村山・山口貯水池 竣工からもうすぐ100年!

村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)の誕生プロジェクトとその経緯。工事については膨大なエピソードがあり、また相当数の資料閲覧も可能であることから、拙HPでは主に誕生後の観光開発と鉄道敷設について触れてみたいと思います。

村山貯水池 竣工時絵葉書:観光開発前夜の様子

写真はおそらく村山貯水池(多摩湖)の竣工に前後して発行されたと思われる絵葉書で、 “東京市水道拡張課” によるものです。私が所有する資料としては最も古いものです。

竣工時と推定したのは、未だ山口貯水池(狭山湖)や多摩湖鉄道が図上に無いためです。

観光的なニュアンスが感じとれないのは、当時としては画期的な大工事・大プロジェクトだったため、その偉業をPRする目的があったためでしょう。

日本初かどうかは分かりませんが、当時から大掛かりな地形模型(ジオラマ)が製作されその写真が掲載されているのは、未だ航空写真が存在していないためと思われます。

工事の資材運搬用に敷設された軽便鉄道が記載されていないのが少々残念で、またひとつだけ “道路” とだけ記載されているのは、その経路から五日市街道と推定できます。

大東京交通略図:戦前のガイドブックから

写真は「龍王堂」という出版社が戦前に発行した首都圏の路線図です。

昭和初期の路線状況が詳細にわたって記載されているうえ、各路線を記号と4色の色分けで巧みに分類するという、涙ぐましい配慮が成されて魅力たっぷりの内容です。

各線それぞれの変遷について語ってみたくもなりますが、それは遠大な作業となりますため、本編の「村山・山口貯水池」にまつわる区間に留めたいと思います。

よくよく見るとこの路線図は、詳細な割に乗換に対して何の配慮も成されていませんね。

地理に詳しくない方や上京された方にとっては、不便だと思いますけれどねぇ(苦笑)。

この路線図の年代特定に、未成線区間がある八高線を引用してみますと、八王子~東飯能間が開業し以北が未成線となっています。前述の区間の開業は 昭和 6年(1931)12月。

東飯能~越生間を延伸開業したのが 昭和 8年(1933)4月なので、昭和 7年(1932)の営業状況を基に作成された路線図であると推測できます。

さて上図でも分かるとおり昭和初期の村山・山口両貯水池には、今日に至る3本の路線が既にアクセスされていました。現在は全て西武鉄道の路線になっていますが、当時は何と3社による壮烈な観光客争奪戦が繰り広げられていたのですから驚きです。

上から順に

・武蔵野鉄道山口線(現 西武池袋線~狭山線)

・旧西武鉄道村山線(現 西武新宿線~西武園線)

・多摩湖鉄道多摩湖線(現 西武多摩湖線)

このうち多摩湖鉄道は箱根土地の子会社から発足していますが、昭和15年(1940)3月に武蔵野鉄道は箱根土地の傘下となります。続いて昭和18年(1943)3月には旧西武鉄道も箱根土地の傘下となり、戦時中になんと1社化されて競合の目的を見失ってしまいます。

皮肉なことに戦況の悪化に伴い、多摩湖線以外の2線は「不要不急線」の扱いとなり休線の憂き目を見ることになりますが、まぁこれはその成り立ちからしても仕方ないですね。

※西武鉄道の歴史については以降も簡略的な記載となりますので、ご了承ください。

*戦前の様子①:武蔵野鉄道(現 西武池袋線)側からのアプローチ

方角:左=東 右=西 上=南 下=北 ※通常の地図とは反対の方角に描かれています。
方角:左=東 右=西 上=南 下=北 ※通常の地図とは反対の方角に描かれています。

画像の鳥瞰図は、武蔵野鉄道(現 西武鉄道池袋線)が戦前に発行した絵葉書からです。

武蔵野鉄道は、本線から昭和 4年(1929)5月に西所沢駅で分岐させた山口線(現 西武鉄道狭山線)を開業させ、両貯水池への観光アプローチを北側の所沢町(現 所沢市)側から開始しました。当初から直流電化され、池袋からの直通電車に利便が図られています。

絵葉書では、終点を「村山貯水池際駅」。山口貯水池(狭山湖)の堰堤(ダム)下の駅を「山口貯水池駅」と称しているので、両駅名が改称された昭和 8年(1933)3月以降に発行されたものと思われます。

※開業時の駅名は、終点から 村山公園、上山口、下山口、西所沢 の4駅。

 

図の特徴は、何といっても狭山丘陵一帯の “深山幽谷” ぶりが誇張されて書かれていることでしょうか(笑)。特に村山貯水池(多摩湖)の南側は、尾根ひとつ向こうは遥か多摩丘陵まで遮るものの無い武蔵野台地が広がっているべきところ、山なみは果てしなく霞がかり遠く富士山まで連なっているが如く描かれているのには、失笑させられてしまいます。

まぁ昭和初期の東京市民から見れば、現在の奥多摩湖くらいの山奥に相当したのかもしれませんね。両貯水池以外の名所としては、古刹「山口観音(金乗院)」、玉湖神社(たまのうみ)」、「大展望台」と称された狭山富士以外、肝心の村山公園の存在は見当たりません。

 

武蔵野鉄道山口線はその後も変遷を続け、昭和16年(1941)4月には「村山貯水池際駅」は「村山駅」へ改称。「山口貯水池駅」は「上山口」に駅名が復されています。

これは “貯水池” という駅名を軍事・国防上秘匿する目的があったためと言われています。

昭和19年(1944)2月には太平洋戦争の戦況悪化に伴い、不要不急線として営業休止(休線)を命じられ、7年後の昭和26年(1951)10月に非電化ながら営業を再開。この時点で

路線名が「西武鉄道狭山線」に変更されました。「村山駅」は「狭山湖」へ再度の改称。

その間、昭和20年(1945)9月には武蔵野鉄道と旧西武鉄道の企業合併が行われ、「西武農業鉄道」に改組。翌年には現在の「西武鉄道」に社名を変更し、今日に至っています。

 

変遷はこれだけでは終わりません。昭和27年(1952)3月には再度電化され、四半世紀後の昭和51年(1976)6月になってようやく休止状態の「下山口駅」のみ再開業しました。

昭和53年(1978)11月には「狭山湖駅」が約300m西所沢駅寄りに移設されました。

駅名も翌 昭和54年(1979)3月に「西武球場前駅」に改称。これは軽便鉄道だった西武山口線(おとぎ電車)を新交通システム(レオライナー)に路線変更した際、「西武球場前駅」への乗り入れを行って西武園方面からのアクセスを向上させたことによります。

 

*駅名の変遷を整理

・昭和 4年(1929) 5月~ 村山公園 ⇔ 上山口 ⇔ 下山口 ⇔ 西所沢 武蔵野鉄道山口線

・昭和 8年(1933) 3月~ 村山貯水池際 ⇔ 山口貯水池 ⇔ 下山口 ⇔ 西所沢

・昭和16年(1941)4月~ 村山 ⇔ 上山口 ⇔ 下山口 ⇔ 西所沢

・昭和19年(1944)2月~ 営業休止

・昭和26年(1951)10月~ 狭山湖 ⇔ 西所沢 西武鉄道狭山線

・昭和51年(1976) 6月~ 狭山湖 ⇔ 下山口 ⇔ 西所沢

・昭和54年(1979) 3月~ 西武球場前 ⇔ 下山口 ⇔ 西所沢

*戦前の様子②:多摩湖鉄道(現 西武多摩湖線)側からのアプローチ

画像のパンフレットは、多摩湖鉄道(現 西武鉄道多摩湖線)が戦前に発行した二つ折りのハイキングガイドです。

多摩湖鉄道は村山貯水池周辺の観光事業を目的とした箱根土地の子会社として発足し、昭和 5年(1930)1月に国分寺~村山貯水池(仮)駅間を開業させ、村山貯水池への観光アプローチを東側の東村山町(現 東村山市)側から開始しました。

 

当時の多摩湖鉄道は東京方面からの路線を持っていなかったため、国分寺駅までは省線中央線(現 JR中央線)の利用が前提でした。

※書き込みがあり、画像処理させていただきました。
※書き込みがあり、画像処理させていただきました。

パンフレットを見てお分かりだと思いますが、競合他社(武蔵野鉄道、旧西武鉄道)の路線や駅は影も形もなく※)、省略が徹底されているところも何となく寂しいですね。

※バス用に東村山駅だけは辛うじて掲載。

ハイキングで歩いた先、例えば山口貯水池まで行けばそこに武蔵野鉄道の駅が存在するにも拘らず、あえて西側の箱根ヶ崎方面へバスでアクセスするコースを紹介するなど、この穏やかなパンフレットは3社の競争がいかに激しいものであったかを物語っています。

この写真は絵葉書からのもので、多摩湖鉄道の終点「村山貯水池駅」の様子です。

この駅にも変遷があって、開業時には現在の武蔵大和駅よりもやや八坂駅寄りに「村山貯水池(仮)駅」が設けられ、昭和11年(1936)12月に約1km延伸させた場所に写真の「村山貯水池駅」が正式に設けられました。しかしそれもつかの間のこと。

太平洋戦争における国防上の措置で貯水池はならんと、昭和16年(1941)4月には「狭山公園前駅」に改称させられてしまいます。

 

戦後になると熾烈を極めた3社の競合も1社統合によって解消し、多摩湖鉄道も西武鉄道多摩湖線へと変ってのどかな観光電車の役割が戻ってきました。

駅名は昭和26年(1951)9月に「多摩湖駅」と三たび改称され、昭和36年(1961)9月には路線が400m延伸してそれに伴って駅も移設されました。これが現在の「西武遊園地駅」の位置にあたり、つまり4度めの改称となります。写真の位置は現在の多摩湖線の終点ではなく、途中にあるガードの近くに面影を見出せる場所があります。

 

多摩湖鉄道の変遷の面白さには、実は 国分寺~萩山 間の路線変遷と駅の統廃合の変遷もあって興味が尽きないのですが、それは村山貯水池を廻る誘客合戦からは脱線するため、

涙を呑んで割愛します。ここで大切なのは、戦前から “多摩湖鉄道” という名称が既に用いられていたという戦後に起こる観光展開への伏線ですね。

*戦前の様子③:旧西武鉄道(現 西武西武園線)側からのアプローチ

残念ながら、当時の旧西武鉄道による村山貯水池周辺のパンフ等は入手できていません。

資料によりますと西武園線のルーツは旧西武鉄道 村山線(現 西武新宿線)の延伸計画上にあった “箱根ヶ崎線” に端を発しているようです。えっ? 旧西武鉄道 村山線は川越方面にじゃないの? と思われるかもしれませんが、既に川越までは川越鉄道による川越線(現 西武国分寺線)が村山線に先立って開通しており、村山線は東村山駅で川越線に接続する形で開通していた経緯があります。前述のとおり旧西武鉄道は武蔵野鉄道との熾烈なライバル関係にあり、多摩西部の交通掌握と村山貯水池(多摩湖)観光の2つの目的から、東村山駅を起点に村山貯水池の下堰堤 “狭山公園” を経由して狭山丘陵の南側を路線とする、 “箱根ヶ崎線” を構想していました。ところが大正 4年(1915)の申請から工事は先延ばしにされ続け、先述の多摩湖鉄道が村山貯水池の下堰堤 “狭山公園” に進出を計画した際、それを前もって牽制するために、ようやく昭和 5年(1930)4月に同じ下堰堤 “狭山公園” 前に「村山貯水池前」までの1区間だけを竣工させたのでした。これは多摩湖鉄道の「村山貯水池駅」と至近距離のうえ駅名もほぼ同じだったので、相当まぎらわしいですね。

おまけに先述の武蔵野鉄道は昭和 8年(1933)3月に「村山公園」を「村山貯水池際」に改称したものだから、一文字ちがいの駅が3駅もあったわけで利用者は困ったでしょう。

※上掲の「大東京交通略図」をご参照ください。まさにこの時代の路線図です。

 

さて 旧西武鉄道 村山線の一部として開業した “箱根ヶ崎線” 構想は、その進捗があまりに遅いため、昭和 6年(1931)に申請を取り消されてしまう憂き目をみます。

そこでしばらくは、村山貯水池観光を廻って多摩湖鉄道との営業対決を激化させて行きました。後は先の2例と同様、先ず国防上の措置で「村山貯水池前」は「狭山公園」に改称させられ、昭和19年(1944)5月には不要不急線として営業休止(休線)を命じられ、線路まで撤去されてしまい終戦に至ります。

※多摩湖鉄道は「狭山公園前」なので、紛らわしさは解消していないのがミソ(苦笑)。

 

その間に会社統合が行われ、旧西武鉄道・武蔵野鉄道・多摩湖鉄道はひとつの会社になって、村山貯水池を廻る営業対決は沈静化の方向に向かいました。昭和23年(1948)4月に村山線は復活。「狭山公園」は「村山貯水池」に改称しての再出発となりかけましたが、西武鉄道が村山貯水池周辺の広大な土地を取得した一環で村山競輪場(現 西武園競輪場)が開設され、その交通アクセスのために村山線に支線を設けることになりました。

昭和25年(1950)5月に「西武園」が臨時駅として開業。路線は村山線に野口信号所を設け分岐する形をとりましたが、先述のとおり多摩湖鉄道との対決が不要となった「村山貯水池」駅の存在意義が無くなったため、昭和26年(1951)3月にこの区間は廃止され、野口信号所から「西武園」が正規の路線に昇格することで、今日に至っています。

 

*駅名の変遷を整理

・昭和 5年(1930)4月~ 村山貯水池前 ⇔ 東村山 旧西武鉄道 村山線

・昭和16年(1941)3月~ 狭山公園 ⇔ 東村山

・昭和19年(1944)5月~ 営業休止

・昭和23年(1948)4月~ 村山貯水池 ⇔ 東村山 西武鉄道 村山線

・昭和25年(1950)5月~ 村山貯水池・西武園(支線) ⇔ 東村山

・昭和26年(1951)3月~ 西武園 ⇔ 東村山 ※村山貯水池方面は廃駅・廃線

・昭和27年(1952)3月~ 西武鉄道 西武園線に改称 西武鉄道 村山線は新宿線に改称

閑話休題

舞台を代表する土地名「狭山」「村山」「山口」 そのルーツとは?

狭山丘陵を舞台とする調べものをしていると、何かにつけ 狭山~、村山~、山口~ という名称に出くわし、その煩雑な使用状況から根拠・事由が分らなくなることがあります。

それだけ郷土を代表する土地名ということで、汎用されてきたということでしょうか?

 

ひとつ言えることは、今日の行政的区分。例えば「狭山市」「東村山市」「武蔵村山市」の位置に当て込んでしまうのは、誤りとは言いませんが正しい方法ではないと思います。

何故ならこれらの名称がついたのはせいぜい100年に満たない歴史しかなく、それらに所縁(ゆかり)があったとしても、全域を網羅することを目的としていないからなのです。

これらの地域は明治維新以前、遥か千年以上も昔からあった「武蔵国」に包括されたひとつの地域で国境などは無く、あったとしても “郡” や “村” の境にしか過ぎません。

東京都と埼玉県の県境が引かれたのは、つい最近の出来事でしかないからです。

 

<狭山>

江戸時代後期に編纂された地方誌の巨編「新編武蔵風土記稿」によりますと、狭山とは今日の「狭山丘陵」の範囲を指すと、ほぼ特定された記述があるようです。

言われてみれば、瑞穂町にある「狭山池」はほぼ西端にあたりますし、東端と南端ははっきりしませんが、東大和市狭山(旧狭山村)あたりまでと推定できます。曖昧なのが北側で、狭山ヶ丘や狭山市という地名はあっても、古来からのものは無いように思います。

※現在の東京都西多摩郡瑞穂町と埼玉県入間市この境に跨る地域に、昭和33年(1958) 

 まで「元狭山村」が存在しました。この村域は狭山丘陵の西端にほぼ合致しています。

 

<村山>

歴史から入ると平安時代に遡り、武蔵国多摩郡 “村山郷” に桓武平氏の庶流の一族が土着して “村山氏” を名乗り、更に支族が近隣に拡散しその土地名を名乗ったことに由来します。

例えば、金子氏・仙波氏・宮寺氏・山口氏 等がそれで、“村山党” と呼ばれた在郷武士団を形成したことによって、彼らが活動した地域(入間川~狭山丘陵一帯)を包括して村山党に所縁(ゆかり)の地名として残ったのではないかと、これは私の憶測です。

“村山党” 村山氏が本拠とした遺跡・遺構は残念ながら確認されていませんが、地名や伝承から 西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷 一帯と推測され、居館跡と推定される福正寺には村山土佐守一族の墓と伝わる墓石もあります。→ 近隣の阿豆佐味天神社付近という説もあり。

瑞穂町殿ヶ谷は交通の要衝である箱根ヶ崎の東側に位置し、武蔵野台地を経て多摩川方面に視界の開けた狭山丘陵の南面にあたるので、居館を構えるに適した地形と思われます。

不思議なのは “村山郷” の範囲であったはずの埼玉県側に村山という地名が見当たらず、狭山丘陵の東京都側に東村山市や武蔵村山市が存在するために、村山を指す地域のイメージが本来の位置からやや南寄りになっているようです。広義な見方をすれば、村山も狭山も狭山丘陵一帯の地域を指すと言って間違いないでしょう。明確な境界はありません。

※瑞穂町殿ヶ谷は殿ヶ谷戸とも呼称されますが、国分寺市の “殿ヶ谷戸庭園” や八王子市の

 “殿ヶ谷戸公園” との関連はありません。

 

<山口>

これは先の村山・狭山とは異なり、はっきり地域名が特定できます。村山の項で述べた、村山党の支族が狭山丘陵の北側 “山口” に土着して山口氏を名乗ったとおり、所沢市山口として地名が継承されていますが、現在の “山口” よりやや広範囲ではないかと思われます。

ここで触れておきますと、所沢市山口の中心は西武遊園地のほぼ真北にあたり、そこには村山党山口氏代々が戦国時代まで居館を構えた跡も(極く僅かですが)残されています。

しかしそこから数キロ西に行ったところにある狭山湖に、山口貯水池という正式名称があるのは何故でしょうか? それは貯水池を工事した時代(大正末~昭和初期)、そこは所沢と合併前の “入間郡山口村” だったからなのです。山口には古来からの “字” を指す場合と過去にあった村を指す場合があるわけで、まぁルーツにはいろいろあるわけですね。

 

<まとめと余談>

村山・狭山は、狭山丘陵のほぼ全域で使える名称。山口は狭山丘陵の北側一帯に使える名称ということで、ほぼ落ちがついたようです。文献を読んでいて知ったのですが、東大和市の市制施行前は北多摩郡大和町という名称。この “大和” という意味に隠された理由は、やはり複数の村が合併するときに何処の村名も採用できなかった。だから「大いなる和のもとに誕生した町」なのだそうです。何処の市名もまったく同じ事情の産物なのですね。

私はこの事実を知るまでは、谷戸(ヤト※) → 山戸 → 大和(ヤマト)という訛りと当て字がルーツなのだとばかり思っていました。 こちらの方がもっともらしくありませんか?

東久留米市も、黒目(クロメ)川流域 → 久留米(クルメ)と、訛りと当て字がルーツです。

※谷戸(ヤト)は関東地方に見られる地形の呼称で、丘陵地が浸食されてできた谷状の地形

 を指します。狭山丘陵にも宮の入谷戸、赤坂谷戸 等、多数の谷戸が現存します。

*戦前の様子④:村山貯水池・山口貯水池 ゑはがき の旅

※各所の位置関係については *戦前の様子① の鳥瞰図絵葉書をご参照ください。

 

東京府下・北多摩地区に新たに誕生した観光資源 村山貯水池と山口貯水池。鉄道会社3社による壮絶な誘客合戦の成果もあって、太平洋戦争が激化する前まで府民に手軽な観光地として賑わっていたようです。カメラも写真も庶民には高嶺の花だった時代、絵葉書はお土産や自身の記念品として重宝されていました。特に戦前の絵葉書はモノクロで雰囲気も良く、狭山丘陵の深山ぶりにも味わい深いものがあります。


左:村山貯水池の上貯水池北岸から上堰堤と南東方向を遠望したところ。

  北岸の高所といえば「大展望台」こと狭山富士の山頂からの撮影かもしれません。

  目を凝らすと遠くの山並みは遥か多摩丘陵であることが分かります。ビルやマンショ

  ン、高圧鉄塔など遮るもののない広大な武蔵野が広がっていたことでしょう。

右:村山貯水池南岸の上貯水池取水塔から東方と下貯水池方面を遠望したところ。

  先ず上貯水池取水塔は竣工時のもので、現在とは異なる体育館屋根の建物です。堰堤

  は戦時中に爆撃を想定したコンクリート補強と黒色塗装を受けましたので、美しい原

  形のアースダムが写真から偲ばれます。やはり東方に高層建築がなく開けています。


左:村山貯水池の下貯水池取水塔と、手前は下堰堤南端に設けられた余水吐の排出堰。

  ドーム状の屋根と円筒形の取水塔が湖水に映える美しい姿を今日でもほぼ同じ状態で

  見られるのはありがたいことです。余水吐排出堰は多摩川からの取水や雨水で貯水量

  が過剰になった際に放出するための設備ですが、昭和30年代に奥多摩湖が竣工すると

  多摩川の水量自体がコントロールされてしまうようになり、村山貯水池への給水も制

  限されるようになって、この堰が使用されることは殆ど無くなってしまいました。

右:山口貯水池の取水塔。

  左の写真とは対照的に円錐形の屋根が天空を突くような男性的な佇まいを感じます。

  よく見ると渡り橋の構造も吊り橋状で、村山貯水池の取水塔とはあえてちがった趣き

  を意識していることが分かります。空の広さもそうだし、当時を見たかったなぁ…


左:玉湖(たまのうみ)神社

  実はこの神社が絵葉書のセットに含まれていることで、発行が昭和10年(1935)以

  降であることが明確になります。玉湖神社の竣工は昭和 9年(1934)12月で、東京

  府水道局の福島甲子三氏が発起人となり、村山貯水池・上貯水池の北岸に建てられま

  した。山の神、水の神そして工事の殉職者を祀る神社として、それはそれで目的に適

  っているようにも思えるのですが、水道局という役所が神社を祀ることは政教分離の

  原則に抵触するとの理由から昭和43年(1968)12月に御霊遷しが行われ、現在は神

  様不在の状態。空き家のごとく社殿だけの神社となってしまいました。その社殿も東

  日本大震災で傷みが生じ、一部が解体・撤去されてしまったと聞いています。

右:狭山富士(*戦前の様子① の鳥瞰図絵葉書では “大展望台” と記載)

  玉湖神社に隣接してというか作られたのはこちらの方が1年早く、昭和 8年(1933)

  9月の竣工。設計者は儘田(ままだ)吉之助氏とのこと。~富士といえば全国的には “郷

  土富士” 例えば津軽富士の岩木山とか。関東地方では “富士講の富士” 例えば所沢市に

  現存する荒幡富士などが知られていますが、狭山富士はそのどちらにも属しません。

  村山・山口両貯水池の展望台として建設されたもので、遠く富士山から奥多摩の山並

  み。東は国会議事堂まで見渡せたとのことです。構造は土盛りをした上に、富士山の

  冠雪を模したコンクリートが山頂部に被せられました。その後は経年劣化でそのコン

  クリート部や山形が崩れたりして、優美な姿が徐々に失われていったそうです。

  玉湖神社同様に東日本大震災で崩れる可能性が指摘され、現在では立入禁止の措置が

  とられてしまいました。絵葉書の写真は貴重な竣工時の様子を伝えるもので、コンク

  リート製の山頂部もしっかり確認できます。ただ富士山というよりは昭和新山の溶岩

  ドームのように見えてしまったのは失礼だったでしょうか? ごめんなさい。m(__)m

この噴水は上堰堤の南東側、取水塔近くの公園に設けられたもので、ガイドや他の絵葉書にも頻繁に登場する名所のようです。

写っているのは下貯水池の湖面で、どうやら上貯水池と下貯水池との水位の落差で生じた圧力を噴水に利用しているようです。

仕組み的には上貯水池の取水塔から下貯水池へ通じる水路トンネルがあり、その途中に水圧を緩衝する穴があって、その一つがこの噴水になっているというわけです。

ガス抜きならぬ水抜き噴水(笑)。

従って常時吹き上がっているわけでもなく

間欠泉のように間隔を空けて吹き上がっているわけでもなく、前述の条件に適った時だけ見られるという、まぁ運試しですな。

 

現在も残ってはいますが写真のようなきれいな公園状ではなく、フェンスに囲まれた

立入禁止区域のような扱い。余水吐でも触れましたが貯水量をフル稼働させることが減ったので殆ど見られないとのことです。

上掲までが、写真で紹介した “ゑはがき” セット内。以降は単品で入手したものです。


左:村山貯水池 取入口

  位置は村山貯水池・上貯水池の西端近く。遥か多摩川の羽村取水堰から暗渠導水路を

  経て通水されています。この導水路(羽村村山線)は今日も変わらず稼動中で、村山

  貯水池の建設時は上を資材運搬の軽便鉄道が。今日では一部がサイクリングロードと

  として、そのルートをたどることができます。冒頭の “東京市水道拡張課” による絵葉

  書を参照していただくことで、位置関係がよく把握していただけると思います。

右:村山貯水池(送水のための)余水吐

  私の推測ですが、下貯水池から境浄水場への導水路(入口が写真のトンネル)へ過剰

  な水量が流入しないよう超過分を排出するための設備を撮影したものと思われます。

  つまり右側に円筒状の白い杭が等間隔で並び、その杭の間に仕切状の壁が設けてあっ

  て、水量がそれを超えた分が余水となって杭の右側に流れ落ちる仕組みでしょう。

  村山・山口貯水池にはダム湖自体の貯水量を守るための余水吐と、導水路への流出量

  を制限するための余水吐が設けられていたようで、どちらも必要な設備にはちがいあ

  りませんが、なにぶん絵葉書の説明としては不案内な印象を受けました。

  だって、この写真を見ただけで部位と用途が分る方がいたらすごいと思いますよ。

  事実が分かりましたらまた更新することにします。


左:村山貯水池 下貯水池取水塔と下堰堤周辺

  上掲の同施設の絵葉書よりかなり広範囲を収めていたので収録しました。

  建物手前の橋下の水路が、下貯水池の貯水量を守るための “余水吐” です。

  現在では対岸に西武ゆうえんち、掬水亭、西武ドーム 等が大きく存在するのですが、

  当時は狭山丘陵の山並みが続いているだけの景色だったのですね。

右:現在の同地点

  撮影地点はほぼ同じなのですが方向が内側を向きすぎているため、定点撮影になるよ

  う後日に再撮影を目論んでいます。給水塔の美しさが今日も変らずに維持されている

  ことをうれしく思います。

戦前編の締めはこれです “村山ホテル” 。

竣工は昭和 3年(1928)5月。経営は旧西武鉄道によるもので、目的はもちろん村山貯水池への行楽客招致のためです。

3階建ての白い洋館の出現が注目を集めないわけはなく、昭和 3年(1928)3月16日付の東京朝日新聞では、「村山貯水池にしゃれたホテル。大自然公園計画に伴っておとぎ話のような建築」と報じました。

設計は当時の早稲田大学教授 十代田(そしろだ)三郎(さぶろう)氏によるもので、客室数29、娯楽室、音楽室、温浴場、史蹟研究陳列室 等が設けられていました。が、大岡昇平の小説「武蔵野夫人」の一節には、~湖畔の同伴ホテルは~ とのくだりが見られ、当時から現在でいう「連込宿ことラブホテル」としても見られていたことが憶測できます。

余談ですが、村山ホテルで検索すると多摩湖ラブホテル街に連れて行かれます(苦笑)。

この写真の正面をS字に走る歩道に見覚えがあると思ったら、現在の西武園ゆうえんちの展望塔(ジャイロタワー)基部に突き当たる遊歩道が、正にそれだと分かります。

現在は木々が繁茂しているため別の場所のようですが、多摩湖周回道路に出る直前のところに売店がある、あの遊歩道ですね。

 ( “人間の証明” の一節みたい…)

村山ホテルは戦時中に休止・荒廃し、戦後は改装されて “多摩湖ホテル” として甦ります。そしてその1階の西側には軽便鉄道の発着駅が設けられ、いよいよ “おとぎ電車” の誕生へと話しは続いて行きますため、戦前編はこれにて一旦完結とさせていただきます。

<参考資料>

・多摩湖の原風景 東大和市史資料編2 東大和市史編さん委員会刊

・狭山丘陵博物誌 肥田埜孝司 武蔵野郷土史刊行会刊

・村山党と狭山丘陵 京王多摩文化資料 第12集 京王多摩文化会刊

・歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄14 西武鉄道① 朝日新聞出版刊

・歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄15 西武鉄道② 朝日新聞出版刊